やまがたレトロ館( 旧山寺ホテル)ブログ

2012年より「やまがたレトロ館」として開館した登録有形文化財・旧山寺ホテル(山寺・宝珠山 立石寺)のイベント情報をお届けします

■高橋源吉 クラウドファウンディングのご案内

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「山形歴史たてもの研究会」並びに「株式会社文化財マネージメント」より、レトロ館で保管している油彩画の一つ、高橋源吉の油彩画を修復する為
クラウドファウンディングを実施頂いております。

 高橋源吉やクラウドファウンディングの詳細については下記のリンク先をご覧下さい。

 
・山形市山寺に伝わる、高橋由一の息子・源吉が描いた明治時代の油彩画を修復したい!
https://camp-fire.jp/projects/view/44552

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◇20歳頃の高橋源吉

 
リンク先にもある通り、現在保管や維持の為の費用は来館者からの寄付で賄っておりますが、そのほとんどが建物自体の維持費用に消えてしまいます。
貴重な文化財を守る為に、皆様のご協力を頂ければ幸いです。

■やまがたレトロ館 開館のお知らせ

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やまがたレトロ館の中庭より宝珠山を臨む

 

 先月の4月23日(日)より、今年もやまがたレトロ館の一般公開を開始しました。
 開館の数日前に、冬期間中に各部屋にたまったホコリを掃除したり、結城泰作氏のペン画を各部屋へ展示するなど、準備作業に追われる日となりました。
 裏庭では椿の蕾が開花が目前でした。もうすぐ満開となり、その時は鮮やかな色を見せてくれるはずです。
 ちなみにこの庭は、かつて京都式庭園として作成された庭園でした。2年ほど前より、京都で修業を積んだ若い職人の方によって少しずつ手が入れられ、かつての美しさを取り戻しつつあります。
 来館頂いた皆様に、結城泰作のペン画、旧山寺ホテルの情感溢れる雰囲気を味わって頂ければ幸いです。皆様のご来場を心よりお待ちしております。

 

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開花間近の椿

アクセス

やまがたレトロ館 旧山寺ホテル
― 結城泰作やまがたレトロ館原画展示館 ―
〒999-3301
山形県山形市大字山寺4278
TEL:023-695-2216

電車:JR仙山線山形駅・仙台駅より 山寺駅下車正面すぐ
山形交通バス:山交バスターミナルより 山寺行き山寺駅前下車
車:国道13号線大の目交差点より山寺街道奥へ

結城泰作レトロ館ペン画とは

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 結城泰作(大正11年~平成17年)は、代々左官職人の家に生まれ、明治、大正時代には蔵や外壁の装飾、コンクリート建築などを手がけました。幼い頃より手先が器用で、美術学校を出た訳でもないのに、絵や彫刻が得意でした 。

 山形工業学校卒業後は家業を継ぎましたが、晩年仕事を退いてから山形県内にある明治・大正・昭和初期の建物をペンで描き始めました。79歳の時、病気により指先が思うように動かせず、リハビリになることを願って二女にすすめられたことが切っ掛けです。古い建物が劣化や、都市計画等により次々と姿を消す中、記憶は鮮明で、一枚の写真から詳細に描くことができました。

 当初山形レトロ館絵地図を作成するために、小さな絵を24点描いたことが始まりで、その後は山形歴史たてもの研究会が撮影した写真を基に、山形県内の建物約360点を遺して平成17年、83歳で亡くなりました。

 ペン画は、黒一色で緻密に描かれています。長年建築図面をかく仕事をしてきたことから、定規を使わずにフリーハンドで描いたことは、職人技と言えます。また、建物だけではなく、記憶の中にある植物や鳥などをあしらっていることが、見る人の心をなごませ、懐かしい世界をつくりだしています。

 やまがたレトロ館では、結城泰作氏の作品のうち、山形市内のたてものを描いたおよそペン画120点を常設展示しています。

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結城泰作公式サイト:
結城泰作 レトロ館ペン画の世界

旧山寺ホテルの歴史

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 山寺は霊山であるが故にかつて旅籠はなく、坊が存在していました。しかし、宝暦年間(1751年)になって立石寺により旅籠屋営業が許され、当時川原町に24軒の宿屋があったと言われています。(伊沢不忍著山寺百話より)
 旧山寺ホテルの前身は現在の川原町(立石寺門前町)にあった、当時からの旅籠「中島屋」。しかし大正2年8月、立谷川が氾濫し、建物は流されてしまいました。中島屋の面影は、ホテル正面に掲げられた木製看板裏面の「中島屋治良兵衛」という彫文字に見ることができます。

 建物流失後、対面石の対岸にある現在の場所(南院)に移転再建されました。かつてこの建物は、医院だったとも言われています。明治35年当時の所有者今野有石氏はこの建物をすでに「山寺ホテル」と称していたため、中島屋七代目武田治良兵衛氏は、屋号を「山寺ホテル」として引き継ぎました。この建物は、現在の正面左手の母屋に当たりますが、現在は所有者居住部であるため立ち入ることはできません。その後多くの方々より支援を得て、二階建ての旅館及び庭園を整備し、大正5年、高等旅館として営業を再開しました。当時は立石寺に面した庭園側が正面玄関であり、人力車で賑わう様子が写真に残されています。また昭和期になると、北側庭園は山形・天童方面へのバス発着場となり、さらに賑わう様子が館内に写真展示されています。

 その後山寺は山形と汽車で行き来ができる時代となります。仙山線は仙台と山形を結ぶ国鉄線で、昭和8年に山形ー山寺間が開通しました。この当時山寺ホテルの玄関は、まだ庭園側にありましたが、4年後の昭和12年には仙台ー山寺間が開通し、仙台―山形間全線開通となりました。これにより、山寺は観光地としての隆盛期を迎えます。山寺ホテルは全線開通前の昭和11年、新館(現在の正面右手)を増築し、山寺駅と相対した現在の東側を表玄関としました。以前の表玄関は裏玄関となり、現在も庭に面し残っています。

 新館は当時モダンな造りになっており、玄関すぐ右手には洋風の食堂があったということです。外に面したショウウインドーにその面影を見ることができます。また、新館の屋根は当時最先端であったセメント瓦で葺かれています。さらに電話が引かれ、山寺ホテルは「山寺三番」として電話が設置され、当時の電話室が残されています。

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